犬が地震でパニックを起こしたときは、飼い主が落ち着いて低い声で名前を呼び、安全な場所へ誘導することが基本です。環境省は災害時の「同行避難」を推奨しており、事前にケージへの慣らし訓練や5日分以上のフード備蓄が必要です。地震後は食欲不振や過度な吠えなどのストレス症状に注意し、2週間以上続く場合は獣医師に相談しましょう。
「また揺れるんじゃないか」と怯える愛犬の姿を見ると、胸が締めつけられます。2018年9月、北海道胆振東部地震のとき、札幌市内の動物病院に「地震以来、食事を全く食べなくなった」という相談が殺到しました。私が勤めていた横浜の病院でも、2011年の東日本大震災の後、ストレス性の下痢や脱毛で来院する犬が急増したことを覚えています。災害は突然やってきますが、備えがあれば愛犬の不安を和らげることができるのです。
地震の瞬間、犬の体に何が起きているのか
グラグラと揺れ始めた瞬間、犬の体内ではストレスホルモンのコルチゾールが急上昇します。2024年にルーマニアの獣医学チームが発表した研究によると、犬のコルチゾールは視床下部-下垂体-副腎系(HPA軸)を通じて分泌され、強いストレス刺激を受けると数分で血中濃度が跳ね上がることがわかっています[1]。これは人間でいう「アドレナリンが出る」状態に近いものです。
2015年の春、千葉県市原市で飼われていたゴールデンレトリバーのケースを思い出します。震度4の地震が起きた直後から、それまで穏やかだった8歳のオスが突然、家中を走り回り始めました。飼い主さんは「何かに取り憑かれたみたい」と表現していましたが、これはまさにコルチゾールによる闘争・逃走反応(fight-or-flight response)の典型でした。
では、なぜ犬によって反応が違うのでしょうか。実のところ、犬の聴覚は人間の4倍から10倍も鋭いとされています。地震の初期微動(P波)は人間には感じ取れないことが多いのですが、犬はこの微細な振動や地鳴りを察知している可能性があります。2017年にCornell大学の研究チームが発表した論文では、動物が地震前の音響シグナルを感知するメカニズムについて詳しく検討されています[2]。とはいえ、すべての犬が反応するわけではありません。
驚いて逃げ出す犬、固まる犬、その違い
犬の恐怖反応は大きく分けて3タイプあります。
| 反応タイプ | 具体的な行動 | 注意点 |
|---|---|---|
| 逃走型 | 走り回る、窓や扉に突進する、脱走を試みる | 怪我のリスクが高い。事前にリードを装着 |
| 硬直型 | その場で固まる、震える、動かない | 無理に動かさず声かけを続ける |
| 隠れ型 | テーブルの下、クローゼット、布団の中へ | 安全な隠れ場所なら無理に出さない |
2013年、埼玉県越谷市で竜巻が発生したとき、私の知人が飼っていたミニチュアダックスフンドは、轟音が鳴り響く中、なんとソファの下に潜り込んで微動だにしなかったそうです。これは本能的な自己防衛行動であり、けっして臆病なわけではありません。むしろ、安全な場所を自分で見つけられる賢さの表れでもあります。
パニック状態の犬を落ち着かせる具体的な手順
最初にすべきことは、飼い主自身が深呼吸をすることです。犬は飼い主の感情を敏感に読み取ります。あなたが慌てれば、犬はさらに不安になります。
2008年にスウェーデンで行われた研究では、飼い主との短時間のふれあいが犬のコルチゾール値を有意に低下させることが確認されています[1]。つまり、あなたが落ち着いていれば、それだけで犬の安心材料になるのです。
地震直後にやってはいけないこと
・高い声で「大丈夫よ!」と叫ぶ(興奮を助長します)
・無理やり抱き上げる(噛みつきの原因に)
・逃げようとする犬を追いかける(パニックが悪化)
・暗い部屋に閉じ込める(恐怖が増幅)
2019年の秋、山形県で開催された動物防災セミナーで、ある獣医師がこんな話をしていました。「地震のとき、愛犬を助けようとして飼い主さんが噛まれるケースが少なくない。パニック状態の犬は、普段どんなに温厚でも予測不能な行動をとることがあります」。この言葉は、今でも私の心に残っています。
具体的な声かけと誘導の方法
効果的なのは、普段から使っている「オスワリ」「フセ」などのコマンドを、いつもより低く、ゆっくりとした声で伝えることです。ふと思い出しましたが、2016年に熊本地震を経験した飼い主さんから聞いた話では、「おやつ」という単語だけは地震中でも反応したそうです。食いしん坊な子には有効かもしれません。
安全な場所への誘導は、犬の様子を見ながら行います。テーブルの下や頑丈な家具の近くが理想的ですが、窓ガラスの近くは避けてください。毛布やバスタオルで体を包む「スウェイリング」という方法も、一部の犬には効果があります。これは圧力をかけることで安心感を与えるもので、市販の「サンダーシャツ」と同じ原理です[3]。
避難の準備、何をどれだけ用意すべきか
環境省が2018年3月に改訂した「人とペットの災害対策ガイドライン」では、飼い主による「同行避難」が原則とされています[4]。しかし、2011年の東日本大震災では、福島県で実際に避難所に来た犬はわずか355匹、猫は79匹にとどまりました。多くのペットが置き去りにされ、青森県で31頭、岩手県で602頭、福島県では約2,500頭もの犬が命を落としたと報告されています。
なぜこれほど多くのペットが取り残されたのか。理由は単純です。準備がなかったからです。キャリーケースに入る訓練をしていない、避難所の場所を知らない、ペット用の備蓄がない。こうした「平時の備えの欠如」が、悲劇を招いたのです。
最低限準備すべき防災グッズ(5日分以上)
・ドライフード(普段食べているもの)1kg以上
・飲料水(1日500ml×日数分)
・常備薬・療法食(該当する場合)
・折りたたみ式ケージまたはキャリー
・リード・首輪(予備含め2セット)
・迷子札・鑑札・マイクロチップ情報
・ペットシーツ20枚以上
・排泄物処理袋
・ワクチン接種証明書・健康手帳のコピー
・愛犬の写真(飼い主と一緒に写っているもの)
さて、ここで重要な指摘をさせてください。「同行避難」と「同伴避難」は違います。同行避難とは、ペットと一緒に避難所まで移動すること。同伴避難とは、避難所内で飼い主とペットが同じ空間で過ごせること。残念ながら、日本の多くの避難所では同伴避難は認められておらず、ペットは屋外や別スペースで飼育することになります[4]。
ケージに慣らすトレーニングの具体的方法
2020年1月、私が相談を受けた横浜市内の柴犬は、ケージを見るだけで後ずさりする状態でした。飼い主さんは「うちの子、絶対無理」と諦めかけていましたが、3ヶ月後には自分からケージに入って昼寝するまでになりました。どうやったか。
まず、ケージを部屋の隅に置き、扉を外した状態で1週間放置します。犬が近づいても、何もしません。次の週から、ケージの中におやつを置いて、自発的に入るのを待ちます。入ったら褒める。これを繰り返し、徐々に滞在時間を延ばしていきます。焦りは禁物です。
災害後に現れるストレス症状とその対処
2019年にFrontiers in Veterinary Science誌に発表された東日本大震災の調査研究では、興味深い結果が報告されています。震災直後、ペット飼育者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)スコアは非飼育者より高かったのですが、4.4年後には逆転し、ペット飼育者の方がスコアが低くなっていました[5]。つまり、長期的には犬の存在が飼い主の心の回復を助けていたのです。
しかし、犬自身もストレスを抱えます。テキサスA&M大学の獣医行動学専門家によると、犬のPTSD様症状は5〜17%の犬に見られるとされています。地震や台風などの自然災害も、この原因になり得ます。
| 軽度のストレスサイン | 中度〜重度のストレスサイン |
|---|---|
| あくび(眠くないとき) 鼻を舐める 視線を逸らす 体を掻く |
食欲不振が3日以上続く 下痢・嘔吐 過度な吠え・唸り 自傷行為(足を舐め続ける) |
2012年の夏、新潟県長岡市で大雨による避難を経験した飼い主さんから相談がありました。5歳のトイプードルが、雨音を聞くたびにクローゼットに逃げ込み、出てこなくなったというのです。これは典型的な騒音恐怖症(noise phobia)の症状であり、2001年にペンシルベニア大学のOverall博士らが報告した研究によると、分離不安や雷恐怖症と併発することが多いとされています[3]。
回復を助けるための日常ケア
災害後の犬のケアで最も大切なのは、「いつも通り」を取り戻すことです。散歩の時間、食事の時間、就寝の時間。ルーティンが犬に安心感を与えます。
それでも改善が見られない場合はどうするか。2週間以上症状が続くようであれば、動物行動学に詳しい獣医師への相談をお勧めします。場合によっては、抗不安薬の処方が必要になることもあります。私が勤務していた病院でも、震災後に抗不安薬を処方された犬は少なくありませんでした。薬に頼ることを恥じる必要はありません。それは愛犬のQOL(生活の質)を守るための選択肢の一つなのです。
今日からできる防災訓練のすすめ
防災グッズを揃えただけでは、いざというとき役に立ちません。2017年9月、東京都品川区で行われたペット同行避難訓練に参加したとき、衝撃的な光景を目にしました。普段は落ち着いている犬たちが、見知らぬ人や犬に囲まれた途端、吠え始めたり、リードを引っ張ったりしたのです。
訓練の主催者はこう言っていました。「避難所は、普段の公園とは全く違う環境。騒音、人混み、他の動物の匂い。犬にとっては刺激だらけ」。だからこそ、月に一度でも、避難所まで実際に歩いてみる、キャリーに入れて電車に乗ってみる、といった「予行演習」が重要なのです。
あなたの愛犬は、キャリーに何分間入っていられますか。他の犬と同じ部屋にいても落ち着いていられますか。もし不安があるなら、今日から少しずつ練習を始めてみてください。災害は待ってくれません。でも、備えは今日からでも始められます。
よくある質問
地震で犬がパニックになったとき、どう対処すればいいですか?
まず飼い主自身が落ち着き、低い声でゆっくり名前を呼びかけます。無理に抱き上げず、犬が自分から近寄ってくるのを待ちましょう。安全な場所(テーブルの下など)に誘導し、毛布やタオルで体を包むと落ち着くことがあります。パニック状態の犬は噛みつく可能性があるため、慎重に対応してください。
犬と一緒に避難所へ行けますか?
環境省は「同行避難」を推奨していますが、避難所でのペット受け入れは自治体によって異なります。事前にお住まいの自治体に確認し、ペット可の避難所を把握しておくことが重要です。多くの避難所では、飼い主とペットは別スペースでの生活になります。ケージやキャリーの準備、ワクチン接種証明書の携帯も必須です。
犬用の防災グッズは何を準備すればいいですか?
最低限必要なものは、5日分以上のフードと水、常備薬(該当する場合)、キャリーケースまたはケージ、リードと首輪(迷子札付き)、ペットシーツ、排泄物処理袋、ワクチン接種証明書のコピー、飼い主と一緒に写っている写真です。マイクロチップの装着も強く推奨されています。
地震後、犬にどんなストレス症状が出ますか?
食欲不振、下痢・嘔吐、過度な吠え、震え、飼い主から離れない、トイレの失敗、過剰な毛づくろい(足を舐め続けるなど)が見られることがあります。軽度であれば数日で改善しますが、症状が2週間以上続く場合は、動物行動学に詳しい獣医師への相談をお勧めします。
犬は地震を予知できるのですか?
科学的に証明されてはいませんが、地震の直前に異常行動を示す犬の報告は世界中にあります。犬は人間より聴覚が優れており、地震の初期微動(P波)や地鳴りを感じ取っている可能性があります。ただし、これを「予知能力」として確立することはできておらず、地震予測に利用できる段階ではありません。
飼い主の声
「2019年の台風19号で避難所に行きましたが、うちの柴犬はケージに慣れていなかったので、ずっと吠え続けて周りに迷惑をかけてしまいました。あのとき、もっと早くから訓練しておけばよかったと後悔しています。今は月に1回、ケージに入る練習をしています」
─ 神奈川県・40代女性・柴犬(7歳)の飼い主
「東日本大震災のとき、避難所がペット不可だったので、2週間車中泊しました。愛犬と離れるなんて考えられなかったから。あれから、ペット可の避難所を3カ所調べて、年に1回は実際に歩いて確認しています。備えは自分でするしかないんです」
─ 宮城県・50代男性・ラブラドールレトリバー(10歳)の飼い主
参考文献
- Mârza SM, Munteanu C, Papuc I, et al. Behavioral, Physiological, and Pathological Approaches of Cortisol in Dogs. Animals. 2024;14(23):3536. doi:10.3390/ani14233536
- Kelley MC, Garstang M, Miller CA. Understanding Animal Detection of Precursor Earthquake Sounds. Animals. 2017;7(9):66. doi:10.3390/ani7090066
- Overall KL, Dunham AE, Frank D. Frequency of nonspecific clinical signs in dogs with separation anxiety, thunderstorm phobia, and noise phobia, alone or in combination. J Am Vet Med Assoc. 2001;219(4):467-473. doi:10.2460/javma.2001.219.467 PMID:11518172
- 環境省. 人とペットの災害対策ガイドライン. 平成30年3月. https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/pamph/h3002.html
- Tanaka A, Saeki J, Hayama SI, Kass PH. Effect of Pets on Human Behavior and Stress in Disaster. Front Vet Sci. 2019;6:113. doi:10.3389/fvets.2019.00113 PMID:31058170
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