犬が寝床を頻繁に変える主な理由は、体温調節、不安やストレス、身体の痛み、環境への不満、加齢による認知機能の変化の5つです。
落ち着かせる方法として、室温を20〜25℃に保つ、静かで暗い場所にベッドを置く、日中の運動量を増やす、獣医師に相談して痛みや病気を除外することが有効です。
夜中にカチャカチャと爪音がして目を覚ますと、愛犬がリビングからソファ、廊下、そしてまた戻ってくる。そんな光景に「どこか具合が悪いのでは」と胸がざわつく飼い主さんは少なくありません。私は2009年から東京都内の動物病院で15年間、診察補助を担当してきました。2018年の夏、埼玉県から来院した12歳のゴールデンレトリーバーのモモちゃんは、まさにこの「寝床を転々とする」行動で飼い主さんを悩ませていた子でした。
そもそも犬はなぜ寝場所を変えるのか
2018年にハンガリーのエトヴェシュ・ロラーンド大学の研究チームが発表した論文によると、犬の睡眠場所と睡眠前の活動は、日中・夜間の睡眠脳波パターンに影響を与えることが確認されています[1]。つまり、犬が寝る場所を選ぶ行動には、単なる気まぐれではなく生理学的な根拠があるわけです。
野生の犬や狼の祖先を思い浮かべてみてください。彼らは外敵から身を守るために、風向きや気温、地面の硬さを確認しながら寝床を選んでいました。この本能は現代の家庭犬にも残っています。ところが、人間の住環境はエアコンや暖房で温度が一定に保たれ、床はフローリングやカーペットで覆われている。祖先が経験しなかった環境に置かれた犬たちは、時として「ここでもない、あそこでもない」とウロウロしてしまうのでしょう。
体温調節という切実な理由
犬は人間のように全身で汗をかけません。肉球のわずかな発汗とパンティング(あえぎ呼吸)で体温を下げるしかない。だからこそ、暑いと感じればフローリングの冷たい場所へ、寒いと感じればカーペットや毛布の上へと移動するのは自然なこと。2016年に発表されたNeurobiology of Sleep and Circadian Rhythms誌の研究では、高齢犬における体温の日内変動と睡眠・覚醒サイクルの関連が報告されています[2]。
実際、私が勤務していた病院でも「夏になると床で寝るようになった」「冬は飼い主の布団に潜り込む」という相談は定番中の定番でした。これ自体は問題行動ではないのですが、一晩に何度も移動を繰り返す場合は別の原因を疑う必要があります。
不安とストレスが引き起こす落ち着きのなさ
フィンランドのヘルシンキ大学が13,700頭の犬を対象に実施した大規模調査があります。2020年にScientific Reports誌に掲載されたこの研究によると、犬の約32%が騒音過敏、約29%が恐怖心を示し、分離不安は14〜20%の犬に見られました[3]。注目すべきは、これらの不安関連特性が互いに併発しやすいという点。騒音に敏感な犬は恐怖心も強く、恐怖心が強い犬は攻撃性も高まる傾向があったのです。
2015年の夏、横浜市から来院した7歳のトイプードル、コロンちゃんのケースを思い出します。飼い主の佐藤さん(仮名)は「最近、夜中に何度もベッドから降りて、玄関マットの上で寝ようとする」と困惑していました。問診を進めると、1ヶ月前に近所で道路工事が始まり、日中の騒音がひどくなったとのこと。コロンちゃんは騒音によるストレスを引きずり、夜になっても落ち着けなくなっていたのです。
すぐに獣医師へ相談すべきサイン
寝床を頻繁に変える行動に加えて、食欲低下、嘔吐、下痢、異常な呼吸、鳴き声の変化、歩行の異常がある場合は、身体的な疾患の可能性があります。特に高齢犬で急に始まった場合は、痛みや内臓疾患を疑って早めに受診してください。
身体の痛みを見逃していませんか
関節炎を抱える犬は、同じ姿勢を長時間維持することが辛くなります。横になっていても股関節や肘関節が痛み、起き上がって別の場所で体勢を変えようとする。これが「寝床を転々とする」行動として飼い主の目に映るわけです。
ある調査では、8歳以上の犬の約80%に何らかの関節の問題があるとされています。しかし、犬は痛みを隠す動物。飼い主が気づかないうちに慢性的な不快感を抱えているケースは珍しくありません。2019年のVeterinary Clinics of North America誌に掲載されたレビューでは、犬の認知機能障害(いわゆる犬の認知症)の主な症状として「混乱、不安、睡眠覚醒サイクルの乱れ」が挙げられています[4]。
高齢犬に多い「夜の徘徊」の正体
8歳を超えた犬の約14〜35%が認知機能障害を発症するとされています[4]。人間のアルツハイマー病と似た病態で、脳内にβアミロイドと呼ばれるタンパク質が蓄積し、神経細胞の働きを阻害します。この疾患の特徴的な症状が「昼間に寝て、夜に落ち着きなくウロウロする」というパターン。英語では「DISHAA」という頭文字で臨床症状が分類されています。
| 分類 | 症状の例 |
|---|---|
| D(Disorientation) | 家の中で迷う、見慣れた場所で混乱する |
| I(Interactions) | 飼い主への反応が鈍くなる、認識できなくなる |
| S(Sleep-wake cycle) | 夜間の徘徊、昼夜逆転 |
| H(Housetraining) | トイレの失敗が増える |
| A(Activity) | 無目的な歩き回り、活動量の変化 |
| A(Anxiety) | 不安の増加、新しい恐怖症の出現 |
2013年にコペンハーゲン大学の研究チームが行った追跡調査では、認知機能障害の犬に見られる主要な4つの症状として「昼間に寝て夜に落ち着かない」「社会的交流の減少」「家の中での混乱」「不安」が特定されました[5]。
私の失敗談を一つ。2017年に診察補助をしていた際、14歳の柴犬の飼い主さんから「夜中にベッドを何度も変えて困る」という相談を受けました。当時の私は「高齢だから仕方ない」と軽く考えてしまい、獣医師への報告が遅れてしまったのです。結果的にこの子は認知機能障害と診断され、早期に対処していれば症状の進行を遅らせられた可能性がありました。この経験から、高齢犬の行動変化は「年のせい」で片付けてはいけないと痛感しています。
愛犬を落ち着かせる具体的な方法
環境を整える5つのポイント
寝床の位置を見直す。犬は本能的に「背後を壁につけて眠りたい」と感じることがあります。部屋の真ん中ではなく、壁際や家具の隣にベッドを置いてみてください。2018年の先述の研究でも、睡眠場所の環境が犬の睡眠の質に影響することが示されています[1]。
室温の管理を徹底する。犬種によって適温は異なりますが、一般的に20〜25℃が快適とされています。夏場は冷感マット、冬場は保温性の高いベッドを用意するのも効果的です。私が勤務していた病院では、夏になるとアルミ製の冷却マットを診察台の横に置いていました。待ち時間が長くなると、犬たちは自然とそこに移動して涼んでいたものです。
寝る前の儀式を作る。毎晩同じ時間に軽い散歩をして、帰宅後に決まった場所でおやつを与え、ベッドに誘導する。このルーティンを2〜3週間続けると、多くの犬は「この流れの後は寝る時間だ」と理解します。
日中の運動量を確保する。エネルギーが余っていると、夜に落ち着けないのは人間も犬も同じ。特に若い犬や活発な犬種は、朝夕合わせて1時間以上の散歩が必要な場合もあります。
複数のベッドを用意する。あえて選択肢を与えることで、犬自身が最も快適な場所を見つけられるようにします。リビングに1つ、寝室に1つといった具合です。
病院で相談すべきケース
行動の変化が急に始まった場合、痛みのサイン(触ると嫌がる、歩き方がおかしい)がある場合、8歳以上の高齢犬の場合は、まず獣医師に相談してください。身体的な問題を除外した上で、行動面へのアプローチを検討するのが正しい順序です。
2021年にTop Companion Animal Medicine誌に掲載されたレビューでは、犬の睡眠障害として最も頻度が高いのはナルコレプシー、レム睡眠行動障害、睡眠時呼吸障害であると報告されています[6]。さらに、睡眠障害は他の基礎疾患の症状として現れることもあり、専門的な診断が重要とされています。
自宅でできる簡易チェック
1週間、愛犬の行動を記録してみましょう。何時に寝床を移動したか、移動前に何があったか(物音、飼い主の動きなど)、移動先はどこか。このデータがあると、獣医師への説明がスムーズになります。スマートフォンのメモ機能で十分です。
穏やかな夜を取り戻すために
寝床を頻繁に変える行動は、犬からの「何か気になることがある」というメッセージかもしれません。体温調節の問題なのか、不安なのか、痛みなのか、認知機能の変化なのか。原因によって対処法は大きく異なります。
冒頭で紹介したモモちゃんは、検査の結果、変形性関節症と軽度の認知機能障害が併発していることが判明しました。痛み止めの処方と、夜間用のナイトライトの設置、規則正しい生活リズムの確立によって、3ヶ月後には夜間の移動回数が激減したそうです。飼い主さんから「やっとぐっすり眠れるようになった」と電話をいただいた時は、私も胸をなでおろしました。
あなたの愛犬が今夜も落ち着きなくウロウロしているなら、まずは観察から始めてみませんか。どんな時に移動するのか、どこに行きたがるのか。その答えの中に、解決への糸口が隠れているはずです。
よくある質問
Q. 犬が寝床を変えるのは何回までが正常ですか?
明確な基準はありませんが、一晩に1〜2回程度の移動は多くの犬で見られる正常な行動です。ただし、5回以上繰り返す、眠れずに歩き回り続けるといった場合は、何らかの問題を抱えている可能性があります。特に以前はなかった行動が急に始まった場合は注意が必要です。
Q. 子犬が寝る場所を定めないのは問題ですか?
子犬は環境への適応段階にあり、あちこちで寝るのは珍しくありません。生後6ヶ月〜1歳頃までに、徐々に「自分の寝床」を認識するようになることが多いです。この時期は、決まった場所にベッドを置き、そこで寝ることを優しく促す習慣づけが有効です。
Q. クレートで寝かせれば解決しますか?
クレートトレーニングは有効な場合もありますが、犬によっては閉鎖空間に強いストレスを感じることがあります。無理にクレートに閉じ込めると、不安が悪化する可能性も。まずは扉を開けたままクレートに慣れさせ、自分から入るようになってから扉を閉める段階に進むのが理想的です。
Q. 一緒の布団で寝ると落ち着きますか?
飼い主の近くにいることで安心する犬は多いです。ただし、一度始めるとやめにくくなること、飼い主の睡眠の質に影響する可能性があることを考慮してください。また、2017年のMayo Clinic Proceedingsに掲載された研究では、犬がベッドの「上」にいる場合は飼い主の睡眠効率がやや低下したと報告されています。部屋の中に犬がいる程度であれば大きな影響はなかったとのことです。
Q. サプリメントや薬は効きますか?
不安の軽減を目的としたサプリメント(GABAやトリプトファン配合のものなど)は、一定の効果が期待できる場合があります。認知機能障害に対しては、獣医師が処方するセレギリンという薬が日本でも使用されています。ただし、自己判断での投与は危険です。必ず獣医師に相談の上、原因を特定してから適切な対処を選んでください。
飼い主の声
「10歳のビーグルが夜中に何度もベッドから出て廊下をウロウロするようになり、心配で病院に連れて行きました。検査の結果、軽い関節炎があることが分かり、サプリメントを始めてから2週間ほどで夜通し眠れるようになりました。もっと早く気づいてあげればよかったと後悔しています。」(神奈川県・50代女性・ビーグル10歳)
「引っ越しをしてから、うちのコーギーが寝る場所を決められなくなりました。リビング、キッチン、玄関マット…と一晩中移動していて。獣医さんに相談したら『環境の変化による一時的なストレス』とのこと。元いた家から持ってきた古いクッションをベッドの上に置いたら、少しずつ落ち着いてきました。」(大阪府・40代男性・コーギー5歳)
参考文献
- Bunford N, Reicher V, Kis A, et al. Differences in pre-sleep activity and sleep location are associated with variability in daytime/nighttime sleep electrophysiology in the domestic dog. Sci Rep. 2018;8:7109. doi: 10.1038/s41598-018-25546-x
- Zanghi BM, Gardner C, Araujo J, Milgram NW. Diurnal changes in core body temperature, day/night locomotor activity patterns, and actigraphy-generated behavioral sleep in aged canines with varying levels of cognitive dysfunction. Neurobiol Sleep Circadian Rhythms. 2016;1(1):8-18. doi: 10.1016/j.nbscr.2016.07.001
- Salonen M, Sulkama S, Mikkola S, et al. Prevalence, comorbidity, and breed differences in canine anxiety in 13,700 Finnish pet dogs. Sci Rep. 2020;10:2962. doi: 10.1038/s41598-020-59837-z
- Dewey CW, Davies ES, Xie H, Wakshlag JJ. Canine Cognitive Dysfunction: Pathophysiology, Diagnosis, and Treatment. Vet Clin North Am Small Anim Pract. 2019;49(3):477-499. doi: 10.1016/j.cvsm.2019.01.013
- Fast R, Schütt T, Toft N, Møller A, Berendt M. An observational study with long-term follow-up of canine cognitive dysfunction: clinical characteristics, survival, and risk factors. J Vet Intern Med. 2013;27(4):822-829. doi: 10.1111/jvim.12109
- Mondino A, Delucchi L, Moeser A, Cerdá-González S, Vanini G. Sleep Disorders in dogs: A Pathophysiological and Clinical Review. Top Companion Anim Med. 2021;43:100516. doi: 10.1016/j.tcam.2021.100516
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